2011年5月20日金曜日

就職のための英語力

グローバル化が進み、出遅れ感の強い日本ですが、グローバル社会で求められる英語力とは何なのでしょうか?一般に英語力といっても様々なスキルがあり、社会が求めていない英語力を身につけることはかえってチャンスに恵まれなくなる可能性があります。グローバル社会が必要としている英語力は以下のようなスキルです。

1. 会話力
グローバル社会において、当然コミュニケ―ションが求められます。英語が話せる人は、出張、転勤の機会が与えられ、重要なポストが回ってきます。ビジネスにおいてコミュニケ―ションなしで成功はしません。また話せる人はさらに話す機会を与えられますが、話すことができなければいくら国際的な事業を行う会社に就職できても話す機会が訪れません。会話能力は2極化する可能性が高く。将来更に話せるためにも、基本的な英会話能力を大学卒業までに習得しておかなければならないでしょう。

2. ライティング能力
ビジネスにおいて書類を書かない日はないでしょう。小さなメモから、メール、FAX、契約書まで。契約書などの専門的な書類は経験豊かな社員や重役が作成するにしても、新入社員も入社後すぐにメモやメールやFAXぐらいは英語で書くように上司に命じられます。大学受験のような特殊な構文までは必要ないものの、基本文型と簡単な文法で短時間に十分な内容を伝達できるライティングスキルが求められます。

3. 速読能力
ライティング能力と同時に必要なのが速読力。毎日何枚ものFAXやメールに目を通さなければいけないのが会社の日課です。グローバル企業では日本語ビジネス文もさることながらクライアント(顧客)やエージェント(代理店)から送られてくるビジネス文に常に目を通さなければなりません。小説のようにゆっくり読んでいる暇はありません。何についてなのか?何が問題なのか?いつ必要なのか?情報の検索です。このような読み方は学校では教えてくれません。学校の英語では精読(文学などの楽しみ、行間を読む)だからです。

4. 聴力(リスニング力)
会話能力があるビジネスマンはすでにこの能力が備わっていますが、第一線で英語を使わないオフィスワークにおいてもグローバル企業においては、いつ海外や日本の外資系企業から電話がかかってくるかわかりません。電話の応対だけでなく、メッセージを正確に聞きとって上司に伝えることが要求されます。

語学のスキルは他のスキルのようにすぐに身につくものではありません。就職のことを考えれば、6年8年や10年前である小学生や中学生からこうした技術を習得できるように英語を勉強することが理想的です。

2011年2月28日月曜日

ウオッシュバック効果

外国語を学習する際、テストは評価や進度を診断するために使用されます。テストは学習の結果であり目的とされません。そのため、テストのために外国語を勉強することは不自然と思われることもあります。
しかしながら、高校受験、大学受験のための試験英語や英検やTOEICなどの語学試験は時に学習の目的として使用されます。テストを目的とする場合、モチベーションの高い学習者は普通に学習する場合よりも上達のスピードが加速される場合もあります。試験のための学習は時として大きな効果を生み出します。こうした効果をウオッシュバックと呼びます。
しかし、ウオッシュバックには2種類の効果があります。一つはプラスのウオッシュバック効果。もうひとつはマイナスのウオッシュバック効果です。試験の内容が試験後の実践内容に何の関連性もなければ、試験のために勉強した内容は効果を表しません。せっかく暗記した単語もすぐに消えてしまいます。この意味では、受験英語でよく試される日本語訳技術や書き換えのテクニックは、受験後学校で翻訳コースに入ったり、脚本家になるための書き換えコースに入る機会がない限り無意味な学習経験となり、マイナスのウオッシュバック効果となります。
受験英語の多くが文学的で学術的内容です。入学後の語学のカリキュラムがアカデミックな内容であれば、プラスのウオッシュバックとなりえるでしょう。しかし、もし実際には会話を中心としたコースだとしたらせっかく覚えた内容が生かされません。数ヵ月後にはアカデミックな語彙も使われずに消えていきます。
一方、英検やTOEICの英語は、特殊な英語を使用していることは少なく日常的な英語が多く合格、不合格にかかわらず、試験後も生活や仕事で使われる英語とつながるためウオッシュバック効果はプラスのものとなります。試験の内容とその語の学習内容や必要とされる技術がマッチしていることがプラスのウオッシュバック効果を生み出します。

2011年2月17日木曜日

英会話と心の力

英会話を始めたころ、私は英会話になぜこれだけ「精神的なストレス」を感じるのか不思議に感じていました。自分の第一言語で話す場合これほど心臓がバクバクすることはなかったため、自分が小心者なのかと思っていました。色々な人の話を聞くたびに、他の人も「緊張する」とか「真っ白になる」とか「英語は度胸だね」などという人と出会うにつれ外国語を話すことは非常に緊張し不安にさせるものではないかと思いました。しかし、その不安は何処から来ているのかそのときは知ることも無く、またその不安を感じないようにとにかく練習と慣れだと思いとにかく外人と思える人に声をかけ話す練習をしました。確かに慣れによる緊張感はなくなりました。特に海外に住みだしてからは毎日のように英語を使う日々が始まりそのような気持ちなど全く消えていきました。ある程度の会話ができるようになり、自分も上級者という段階に入り、日本に生活が戻り、資格試験などを取っているときのこと、久しぶりにその不安を感じ始めたのです。

我々日本人は完璧主義なところがあります。レベルが上がればそれなりの完成度も期待される。間違えてはいけないと言うプライドやもっとカッコよい表現をしようという見栄が緊張感を高めます。間違えても良い、失敗を気にしない気持ちこそが言語において一番大切な審理だと思います。

大人が外国語を習得するのが難しいと臨界期説を唱える人が言いますが、様々な要因があり、そのひとつは大人になると心理的にプライドが高くなり、間違えることが怖くなるのではないかと思います。また頭の良い人ほど、失敗を恐れるので英語のテストやすばらしい知識がある方が話せないことが多いのもこうした真理に裏付けられるのかもしれません。子供やまたは、あまり気にしない人、恥ずかしがらない人は話す機会を増やせるのです。英語をマスターするには、文法力、語彙力、リスニング力、読解力、会話力など様々な言語的な力が必要となりますが、実は強い心の力も必要なのです。

2011年2月15日火曜日

TPPによる真の開国

TPPつまり、環太平洋戦略的経済連携協定(Trans-Pacific Partnership)が議論となっています。これを平成の開国と呼ばれるように、この機会こそ日本が海外へ本当の意味で進出する機会だと思う。明治の開国以来、日本はいくつかの開国のチャンスが訪れた。しかし、開国の意味について良く理解していないこの国では常にグローバル化という言葉を掲げて少数の人にしか受け入れてもらえない状態でした。明治の開国が国家の開国であれば、第二次大戦以降の米軍占領後の開国は企業特に大企業の開国だった。TPPによる平成の開国は個人と中小企業の真の開国になるのではないだろうか。

関税だけでなく、人の移動を規制するものを撤廃することとなる。これは本当のボーダーレスと言える。日本がこの長引く不景気の中、個人も国際レベルでのサバイバルと葛藤している。しかし、そこには規制緩和だけで処理できないハードルがたくさんある。せっかく英語が話せて技術があっても海外で働くことがビザや様々な規制から難しい。中小企業も、アジア市場が拡大する中、今こそビジネスのチャンスである。英語か中国語ができれば日本の産物、製品を容易に輸出、またはダイレクトに販売するネット社会によって構築されている。

今TPPに参加しなくていつするのだろうか?日本は長い間鎖国をした歴史はあるものの、実際には海外との交渉は長くおこなってきた。しかもその時代、輸入よりも輸出により外への輸出により貿易が黒字になった歴史もある。江戸時代の攻めの経済政策を行った田沼意次は長崎貿易を従来の銀の輸出から国内産物の輸出に転換することで黒字にした。時代のコンテキストは異なるが、主要製造物で競争が激しくなるワールドトレードにおいて、今こそ日本の質の高い消費物(農産物)も含めて輸出を行い日本経済を黒字にする時代が到来するのではないかと思っている。

英語を教えても思うのは、せっかくの外国語を使って欲しいということ。この機会を逃せば、この国が国民全体で英語を自国の経済のために使う機会はもうこないとおもう。

2010年1月23日土曜日

二つの英語力

英語の成績が良いのに英会話ができない。その逆に英会話はある程度できるのに、語学試験に合格しない、英語の成績が良くないという話を聞いたことがあると思います。

「語学力」の定義は難しいものです。近代の言語学の研究においても未だはっきりとした定義ができる学説や学者が登場していません。それは「言語」の定義さえ難しいからです。我々が言語と思っているものは、はたして本当に言語なのでしょうか?言語は様々な言語も含まれます。たとえば非言語と呼ばれるジェスチャーや日本人がかつて使ってきたコミュニケ―ションの手段である以心伝心でさえ。ひとつ言えるのは、人類は他の捕食動物に比べ肉体的にも劣るため、集団という方法で生存するすべを学んだため、集団力を保つために言語が発達したことです。つまりコミュニケーションです。一方、われわれ人類はもう一つの生存方法として発達させたのが文明です。文明を作るためには知識が必要です。知識の保存、伝承のためにも言語が必要となりました。つまり、我々の言語は(1)コミュニケーションのための言語力と(2)知識の保存、しいては我々の脳の発達という生物的進化のためにも存在するのです。

これを英語学習に当てはめると、我々は二つの英語力が必要になってきます。ひとつはコミュニケーション能力としての英語力。または言語学者Krashenが定義するところの習得(acquisition)がこの言語能力の領域になります。この能力を磨くには、とにかく使わなければなりません。蓄積しても蓄積されないのが会話の言語です。常に使わなければ忘れてしまう英語が存在するのです。この語学力をマスターすることは、簡単な英語を聞く、話すことを繰り返すことです。この領域は高いレベルの知識を使用することはありません。ですから誰もがマスターすることが可能です。問題は時間です。簡単な表現を聞いて、話す機会を得ることは、その外国語を使わない状況においては非常に難しいのです。そのためには定期的に長期にわたり、または短期に集中して英会話スクールを活用する。または時間がある時に海外に1~3カ月ぐらい留学することも効果的と思えます。

もう一つの領域とは知識の領域です。この領域は論理的に体系的に言語を学習し、また短期間で記憶するなどのメンタルな負荷が非常に高い領域です。いわゆる学校英語がこの知識の領域です。分析的に文法を中心に学習することで言語の仕組みを理解し、また短期間で語彙を覚えることにより言語の理解へのベースが作れる領域です。しかしながら、いくつかの不利な部分がこの領域にはあります。それはこの領域の知識は習得領域へのtransfer(伝達)がほぼ不可能なことが様々な研究で明らかになっています。更に、この領域の知識はwash-backと言われる現象(テストなどの一夜づけなどで覚えたものはすぐに忘れてしまう現象)も起きると言われています。知識領域への蓄積も継続的に少量ずつ行うことが勧められます。この領域を言語力の中枢と考える学者もいます。たとえば、70年代にはやったオーディオリンガル(とにかくリピートして覚える)の考案者Ladoや生成文法のChomskyです。しかしながら、この領域の言語力では話せない、また言語処理への負荷が高く、さらにmonitor(自分の言語を監視する)することを過剰に行うようになり、間違えを気にするようになり、また解釈と発話のプロセスが非常に遅くなるため、実際の会話では自分が話している間に相手が話し始めるとその聞きとった英語を理解できず、聞いた内容を処理することに時間がとられ話すタイミングを逃す場合が生じます。

近年の二種類の言語能力について、カナダの言語学者Cumminsも二種類の言語能力について言及しています。彼の説では言語には生活言語能力(BICS=Basic Interpersonal Communication Skills)と学習言語能力(CALP=Cognitively Academic Language Proficiency)の二つがあると説いています。生活言語能力こそ会話などの言語力であり学習言語能力こそ学校やテストなどの言語能力です。異なる二つの領域は認知的要求度とコンテクストの量により分かれてきます。

英語力が高いというのはこの両方の領域のすべてが高いことを意味するのか、どちらか一方でも高いかは、学習者個人が持つ価値観や求められている学習状況により異なるでしょう。英文学を楽しみたい人は学習言語能力を高めることが大事だと思うでしょう。会話だけができるようになりたい人は生活言語能力だけを伸ばしたいと思うでしょう。学校の外国語授業でもこれまでの教養としての英語授業を継続すべきという学者もいれば、小学校からの学習こそが生活言語能力を高める機会だと主張する学者も多いことは確かです。

私は個人的には生活言語能力も学習言語能力も両方あったほうがよいと思います。それは、第一言語同様話すことをも楽しめ、また文学などの世界も楽しめるからです。ただ、どの学習方法がどの言語能力を高めることに卓越しているかを知らない場合、遠回り、または自分が現在目標としていない違う言語能力を高め、本来高めたい領域がなかなか高められないことになると思えるのです。正しい学習方法を知る前に、自分の目標を定め、その目標がどのような言語能力を要求するかを知り、効果的な学習法を見つけることが賢明だと思えます。

2009年9月11日金曜日

独学と共同学習

学習方法は人それぞれ異なります。しかし、言語学習については、独学は他の教科と異なり効果が少ないのは確かです。

独学が語学学習に向いていない理由は以下の点です。

1) 継続できない
言語学習にとって継続は非常に大切な要因です。すぐに効果の現れない言語の学習だからこそ継続が必要です。一人で勉強するということは非常に意志が強くなくてはできません。人間は意志が弱い動物です。決めたことを最後までやりとおせる人はほとんどいないのが事実です。
2) 癖がついてしまう
一人で勉強するということは、間違えへの指摘、たとえ指摘されなくても自分が他と異なった話し方をしていることに気づかないものです。
3) 教材などの選定を間違える可能性がある
語学学習にとって大切なものは材料です。外国語を学ぶには自分のレベル+1程度の教材を選ぶことが大切です。無理にハードルを上げることは学習にならず、またレベルの低すぎる教材は脳への負荷が少なすぎるため学習になりません。膨大な教材が入手できる現代において自分で教材を探すことはコストもまたかえって時間もかかるものです。
4) コミュニケーション能力が伸びない
言語を習得することは単語を覚えること、文法を覚えることが中心ではありません。自分の言いたいことを伝えることです。一人で学習する場合、自分の言いたいことが相手に通じていることが確認できません。また外国語であれば、文を単語と文法によって組み立てても、それがたとえ文法的に正しくてもネイティブに通じない、またはネイティブであればこのように言うことが一人では分かりません。
5) 独学は学習であり、習得にはならない
独学は記憶をベースとした“学習”であり、体から身につける“習得”とは異なるものです。言語、特に会話、話すと同時に聞くという作業は、運動であり、スポーツのように体験でしか身につけることができません。独学では体験することはほとんど不可能であり、言語の習得が起こらない可能性が高いのです。

さて、独学に対して“共同学習”がありますが、共同学習といっても中には独学に似たような状況があります。それは集団で学習していてもインターアクションが少ない授業です。この学習はこれまで多くの科目で行われており、社会などの知識の伝達を行う授業ではそれなりの効果はあります。しかしながら、語学に関しては集団で学習することは必ずしもインターアクションがあることを意味しません。講師が生徒とインターアクションし、また生徒間でインターアクションを行うことが言語習得には必要なプロセスとなります。

近年共同学習=Cooperative Learning(CL)が語学教育において注目を浴びているのは、独学の正反対にあるこのアプローチが独学のマイナス点を補ってくれるからだと思います。

2009年4月24日金曜日

Ecological Perspective

前回の投稿から半年も過ぎていたことに気づきませんでした。たしかに、公私において一番忙しい半年でした。約2年間の大学院でのTESOLと言語学の研究がようやく先週ようやく終了いたしました。この2年間、最新の言語習得の様々な理論と言語学習の方法論を学びました。理論的な部分が多いものの、既に17年の指導経験のあった私にとっては集大成となる啓発的な経験となりました。今後の自分の指導、言語への見方が変わるすばらしい経験ができたと思います。世界的に権威のある言語学者や実践的な立場にいる言語指導者の方々のコースや講義を聞けたことは至福の時間でした。学術的な刺激を受けれたことで、自分の中で何かが新たに生まれつつあることを感じています。このような現象も言語の習得同様環境によるemergenceと言えるでしょう。これが学習であり、取得の一プロセスなのです。この2年間の大学院での経験は明らかに私に新たな学習のaffordanceを与えてくれたと思います。

近年第二言語習得(SLA)の見方にこのような環境による影響から人は学習し、言葉を身につけると考える見方が現れています。これはecological perspectiveと呼ばれ、van Lier やKramschなどの社会言語学者の提唱する言語取得・調査への新たな観点です。ベースとなっているのはLarsen-Freemanが支持するcomplextiy theory(複雑性理論)です。

ChomskyやKrashenなどの生得または外的な要因だけに視点をおいた学習や習得の理解には限界があります。それらの視点からだけでは内在化の説明はできないのです。我々が言葉をマスターできるのは、文法が分かることでも、たくさん読んだり、聞いたりするからでもなく、それらもひとつのaffordanceとしてnoticing「気づき」のためのひとつの関係作りに利用することでしかないのです。ecological pespective は今までのinputやoutputを超越した形のaffordanceを言語のもうひとつの重要な要因であるnocitingやattentionと呼ばれる認知と結びつけているのです。affordanceは学習者と環境の良好な関係によって生み出されます。つまり言語の学習環境においてはaffordance自体が存在するか、またはaffordanceが豊かが成功の鍵となりえます。

文脈性のない機械的で人工的なinputを提供するのではなく、その学習者の環境にとって意味あるaffordanceを満ち溢れるようにすることこそ我々言語教育者の今後のテーマとなると思います。