2008年5月25日日曜日

Multi Intelligences

以前あるアメリカ人の研究者と話をしていて、「日本人の親はなぜ子供が全員頑張れば勉強ができると思うのか?アメリカでは勉強などができない頭の悪い子が自分の子なら勉強をしろと言わないで、その子のできること、家族で受け継いできた技術を伸ばすことを考えてあげる。勉強ができない子は逆に言えば何か他の才能がある信号なんだよ。」と言った。私は、「日本にもそんな親が高度経済成長期以前にはいたし、この国が全員高度経済成長で高度な学力でしか出世できなくなった社会構造上の問題だ。」と説明した。

1983年にハーバード大学のHoward Gardner博士がMulti Intelligencesとい説を立てた。我々は言語的、理数的な能力にいつも焦点を当てている。理論的で説明力のある人を尊敬する傾向があるが、人間は一人一人何かの才能を持って生まれている。他の才能、例えば芸術、音楽、建築、自然学、舞台芸術、調理師などの様々な才能にも高い敬意を払う必要があると述べている。そして、こうした才能が早期に見つけられ伸ばされない限り、ADDや学習障害と認識されてしまうと述べている。

言語を話すことは第一言語に関しては誰もができることである。これは言語学者KrashenもいうようにAcquisitionによって習得するからである。しかし、第二言語を習得するには、特殊なプログラムや専門家のアドバイスを受けない限り第一言語を習得しながら習得できる人は特別な才能が必要となる。それは高度な知的能力、高度な記憶技術、音素を聞き取る高度な音楽才能などが必要となる。このような才能はもしその人が他の高度な技術を持って生まれた場合残念ながら無い場合、または極端に低い場合がある。そうした人が無理に第二言語を学習しても成果を得れない可能性があるのである。

高等教育が確実に日本の社会構造に組み込まれ、外国語教育も社会に入り込もうとしている。外国語の重要性や高等教育の必要性を説くのだけでなく、学習者個人の才能、個性も考えた個々に向いた教育の大切さにも焦点を当ててほしいものだ。NEETが社会問題になっているが、一人ひとりに合った教育や研修を与える機会を家庭や社会が作らなくなっているのではないのだろうか?

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2008年5月20日火曜日

Is structure sociolinguitically a neutral item to teach?

外国語教育がよりコミュニカティブな方向に向かい、古い文法中心の外国語教育は支持されなくなってきています。多くの文献や最近の研究で文法の学習は習得とは別の学習であり直接会話の技術に変換されないことや処方的な文法指導の場合学習者はKrashenの言うMonitorを発達させ、文法が発話を監視するため流暢さが妨げられると見られている。

しかしながら、その一方で今日の教材はほとんどがストラクチャーベースの文法を基盤に置いたシラバスとなっている。これはなぜだろうか?一つには文法中心の授業はシステマティックで教材が作りやすいという点がある。次に、コミュニカティブな授業を行うには教師・講師がネイティブやネイティブなみの会話駆使能力がないと、自然なインプットを多く生徒に与えられないため、現実公立などの学校の場合そうしたレベルの教師が大多数を占めていない現状がある。そして、更に、大きな原因は国家的な言語政策が関係している可能性もある。文法は一つの言語の客観的な分析であり、主観的な意見や文化的な情報がそこから得られることが少ないため、欧米などの文化や価値観がコミュニカティブな授業よりも入りにくいため閉鎖的な国家や西洋的な考えに先導されることを懸念する国家的な言語政策者は意図的に文法を中心に教えることもあるのである。誤解しないでいただきたいのはこの考察は特定の国についてではない。

Chomskyの仮説するUG(Universal Grammar:普遍文法)があるとするなら、言語の文法は我々人類が持つ唯一の共通言語領域である。それを考えると文法は中立的な言語要素かもしれない。しかし、英文法を別の角度で見れば、言葉の並び方例えば、SVOなどの英語の文型で主語を省略しない、述語が目的語よりも前に来ることを「英語を話す人たちは自分の主張が強い」と解釈するなら、文法自体の学習においても文化的な情報を得る場合があることになる。このような見方をすると文法中心の学習もどこまで社会言語学的に影響を受けない学習方法か疑問になる。

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2008年5月10日土曜日

Who is the language to communicate with?

GWでしばらく間があきました。これから少し忙しくなるので頻繁に投稿はできないかもしれません。

自分は英語の研究をしているので日本語、特に漢字にはあまり興味がないのですが、先日NHKのある番組を見ていて白川静氏(前立命館大学名誉教授)という人のことを知りました。白川氏は漢字学者で2年前に96歳の年齢で亡くなられている。白川氏は漢字の成り立ちを研究されたかただが、ユニークなのは漢字の成り立ちに於いて宗教的、呪術的なものが背景にあったと主張した。多くの批判があったものの、白川氏によって先鞭がつけられた研究は、古代中国史における呪術性を重視する研究者たちに引き継がれ、発展を遂げている。

つまり、白川氏は漢字は神との対話として使われ発達したと解釈している。私は英語を研究していて言語はコミュニケーションのために使うのもだと考えてきた。それは人と人が何かを伝えるものだと信じてきたからである。言語が神との対話のものであると言う説は受け入れない反面、なぜか納得できるところもある。それは人は対話を誰かとしたいと言う思いが強いという証明なのではないでしょうか?

話は言語学になりますが、private speechとは独り言、または脳内で行われる見えない別の人物との対話であり、私はこの会話が第二言語の習得にも必要だと思っているが、神との対話とはこのprivate speechが発展してものでないだろうか?宗教家であれば自分の疑問や悟りのための対話を見えないスピリチュアルな存在と対話を行うだろう。

文字以外でも人間は見えない何かと対話をしたい願望があるようにも思える。例えばナスカの地上絵。何の目的として書いたのかいまだ謎だが、これも人間がprivate speechから発達させた見えないものとの対話への願望の証なのではないだろうか?NASAが宇宙探索をする目的の一つには地球外生命体の確認もあるらしいが、これも見えないものの一つである。

コミュニケーションのための言語、しかしその相手は言葉により、人により相手は様々ということになるのでしょう。言語は見える相手だけでなく見えない相手へのメッセージを送る手段としても使われるいうことでしょうか?今こうしてブログを書いていて思うのは、私も誰か見えないコンピューターの先の人と対話をしようとしているということです。

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