2008年5月20日火曜日

Is structure sociolinguitically a neutral item to teach?

外国語教育がよりコミュニカティブな方向に向かい、古い文法中心の外国語教育は支持されなくなってきています。多くの文献や最近の研究で文法の学習は習得とは別の学習であり直接会話の技術に変換されないことや処方的な文法指導の場合学習者はKrashenの言うMonitorを発達させ、文法が発話を監視するため流暢さが妨げられると見られている。

しかしながら、その一方で今日の教材はほとんどがストラクチャーベースの文法を基盤に置いたシラバスとなっている。これはなぜだろうか?一つには文法中心の授業はシステマティックで教材が作りやすいという点がある。次に、コミュニカティブな授業を行うには教師・講師がネイティブやネイティブなみの会話駆使能力がないと、自然なインプットを多く生徒に与えられないため、現実公立などの学校の場合そうしたレベルの教師が大多数を占めていない現状がある。そして、更に、大きな原因は国家的な言語政策が関係している可能性もある。文法は一つの言語の客観的な分析であり、主観的な意見や文化的な情報がそこから得られることが少ないため、欧米などの文化や価値観がコミュニカティブな授業よりも入りにくいため閉鎖的な国家や西洋的な考えに先導されることを懸念する国家的な言語政策者は意図的に文法を中心に教えることもあるのである。誤解しないでいただきたいのはこの考察は特定の国についてではない。

Chomskyの仮説するUG(Universal Grammar:普遍文法)があるとするなら、言語の文法は我々人類が持つ唯一の共通言語領域である。それを考えると文法は中立的な言語要素かもしれない。しかし、英文法を別の角度で見れば、言葉の並び方例えば、SVOなどの英語の文型で主語を省略しない、述語が目的語よりも前に来ることを「英語を話す人たちは自分の主張が強い」と解釈するなら、文法自体の学習においても文化的な情報を得る場合があることになる。このような見方をすると文法中心の学習もどこまで社会言語学的に影響を受けない学習方法か疑問になる。

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