2008年6月8日日曜日

Three things we have to do as human being

中国のことわざに人間が生まれてやらなければいけないことが3つあり、それの一つをやらなければ人生を終えてはいけないと言う。一つは家を建てること、二つ目は男の子を育てること、三つ目は本を書くことだそうだ。もちろんこれは象徴的な表現である。家とは大きくいえば子孫たちのための住んでいける環境である。男の子とは継承してくれる人。本とは過去の知識を伝えることと意味していると思う。

我々は今環境問題、食糧問題、教育問題と色々な課題を人類全体で抱えている。人類にとって家とは地球である。私たちは次の世代が生きていけるこのきれいな地球を残していく責任がある。受け継いで行ってくれる人類についても我々は少子化、子どもたちの自殺などを防ぐことも出来ない状況にある。そして過去の知識の継承。様々なメディアが進化し、伝えることが容易になった反面、混乱した情報は本当の知識を次の世代に伝えていないのではないだろうか。

この中国のことわざが伝えるのは人間としてすべきことを忠告するだけでなく、人類に対するメッセージにも感じた。

一人ひとりが家族であれば、地球と言う家を残し、こども全てがわれわれの子孫であれば、その子どもたちに一人一人の人生の本とすべき教えを自分の子どもに限らず教えていくことが人類全体の使命だと思う。

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2008年6月1日日曜日

Useful Expressions Part 7

  • vegan 完全菜食主義者
  • sociopath 反社会的な人間
  • career track 出世コース
  • show-off 目立ちたがり屋
  • far-fetched こじつけの
  • jaded 疲れた
  • obnoxious 不快な
  • quip ジョークを飛ばす
  • striking 目を見張る
  • disgraceful 不名誉な
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2008年5月25日日曜日

Multi Intelligences

以前あるアメリカ人の研究者と話をしていて、「日本人の親はなぜ子供が全員頑張れば勉強ができると思うのか?アメリカでは勉強などができない頭の悪い子が自分の子なら勉強をしろと言わないで、その子のできること、家族で受け継いできた技術を伸ばすことを考えてあげる。勉強ができない子は逆に言えば何か他の才能がある信号なんだよ。」と言った。私は、「日本にもそんな親が高度経済成長期以前にはいたし、この国が全員高度経済成長で高度な学力でしか出世できなくなった社会構造上の問題だ。」と説明した。

1983年にハーバード大学のHoward Gardner博士がMulti Intelligencesとい説を立てた。我々は言語的、理数的な能力にいつも焦点を当てている。理論的で説明力のある人を尊敬する傾向があるが、人間は一人一人何かの才能を持って生まれている。他の才能、例えば芸術、音楽、建築、自然学、舞台芸術、調理師などの様々な才能にも高い敬意を払う必要があると述べている。そして、こうした才能が早期に見つけられ伸ばされない限り、ADDや学習障害と認識されてしまうと述べている。

言語を話すことは第一言語に関しては誰もができることである。これは言語学者KrashenもいうようにAcquisitionによって習得するからである。しかし、第二言語を習得するには、特殊なプログラムや専門家のアドバイスを受けない限り第一言語を習得しながら習得できる人は特別な才能が必要となる。それは高度な知的能力、高度な記憶技術、音素を聞き取る高度な音楽才能などが必要となる。このような才能はもしその人が他の高度な技術を持って生まれた場合残念ながら無い場合、または極端に低い場合がある。そうした人が無理に第二言語を学習しても成果を得れない可能性があるのである。

高等教育が確実に日本の社会構造に組み込まれ、外国語教育も社会に入り込もうとしている。外国語の重要性や高等教育の必要性を説くのだけでなく、学習者個人の才能、個性も考えた個々に向いた教育の大切さにも焦点を当ててほしいものだ。NEETが社会問題になっているが、一人ひとりに合った教育や研修を与える機会を家庭や社会が作らなくなっているのではないのだろうか?

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2008年5月20日火曜日

Is structure sociolinguitically a neutral item to teach?

外国語教育がよりコミュニカティブな方向に向かい、古い文法中心の外国語教育は支持されなくなってきています。多くの文献や最近の研究で文法の学習は習得とは別の学習であり直接会話の技術に変換されないことや処方的な文法指導の場合学習者はKrashenの言うMonitorを発達させ、文法が発話を監視するため流暢さが妨げられると見られている。

しかしながら、その一方で今日の教材はほとんどがストラクチャーベースの文法を基盤に置いたシラバスとなっている。これはなぜだろうか?一つには文法中心の授業はシステマティックで教材が作りやすいという点がある。次に、コミュニカティブな授業を行うには教師・講師がネイティブやネイティブなみの会話駆使能力がないと、自然なインプットを多く生徒に与えられないため、現実公立などの学校の場合そうしたレベルの教師が大多数を占めていない現状がある。そして、更に、大きな原因は国家的な言語政策が関係している可能性もある。文法は一つの言語の客観的な分析であり、主観的な意見や文化的な情報がそこから得られることが少ないため、欧米などの文化や価値観がコミュニカティブな授業よりも入りにくいため閉鎖的な国家や西洋的な考えに先導されることを懸念する国家的な言語政策者は意図的に文法を中心に教えることもあるのである。誤解しないでいただきたいのはこの考察は特定の国についてではない。

Chomskyの仮説するUG(Universal Grammar:普遍文法)があるとするなら、言語の文法は我々人類が持つ唯一の共通言語領域である。それを考えると文法は中立的な言語要素かもしれない。しかし、英文法を別の角度で見れば、言葉の並び方例えば、SVOなどの英語の文型で主語を省略しない、述語が目的語よりも前に来ることを「英語を話す人たちは自分の主張が強い」と解釈するなら、文法自体の学習においても文化的な情報を得る場合があることになる。このような見方をすると文法中心の学習もどこまで社会言語学的に影響を受けない学習方法か疑問になる。

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2008年5月10日土曜日

Who is the language to communicate with?

GWでしばらく間があきました。これから少し忙しくなるので頻繁に投稿はできないかもしれません。

自分は英語の研究をしているので日本語、特に漢字にはあまり興味がないのですが、先日NHKのある番組を見ていて白川静氏(前立命館大学名誉教授)という人のことを知りました。白川氏は漢字学者で2年前に96歳の年齢で亡くなられている。白川氏は漢字の成り立ちを研究されたかただが、ユニークなのは漢字の成り立ちに於いて宗教的、呪術的なものが背景にあったと主張した。多くの批判があったものの、白川氏によって先鞭がつけられた研究は、古代中国史における呪術性を重視する研究者たちに引き継がれ、発展を遂げている。

つまり、白川氏は漢字は神との対話として使われ発達したと解釈している。私は英語を研究していて言語はコミュニケーションのために使うのもだと考えてきた。それは人と人が何かを伝えるものだと信じてきたからである。言語が神との対話のものであると言う説は受け入れない反面、なぜか納得できるところもある。それは人は対話を誰かとしたいと言う思いが強いという証明なのではないでしょうか?

話は言語学になりますが、private speechとは独り言、または脳内で行われる見えない別の人物との対話であり、私はこの会話が第二言語の習得にも必要だと思っているが、神との対話とはこのprivate speechが発展してものでないだろうか?宗教家であれば自分の疑問や悟りのための対話を見えないスピリチュアルな存在と対話を行うだろう。

文字以外でも人間は見えない何かと対話をしたい願望があるようにも思える。例えばナスカの地上絵。何の目的として書いたのかいまだ謎だが、これも人間がprivate speechから発達させた見えないものとの対話への願望の証なのではないだろうか?NASAが宇宙探索をする目的の一つには地球外生命体の確認もあるらしいが、これも見えないものの一つである。

コミュニケーションのための言語、しかしその相手は言葉により、人により相手は様々ということになるのでしょう。言語は見える相手だけでなく見えない相手へのメッセージを送る手段としても使われるいうことでしょうか?今こうしてブログを書いていて思うのは、私も誰か見えないコンピューターの先の人と対話をしようとしているということです。

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2008年4月26日土曜日

Can bilingual education foster real communication?

外国語教育の究極のゴールはどこにあるのだろう?そう思うことはないでしょうか?bilingual になることとmonolingualであることの社会性における利点、不利益は何だろうか?外国語教育が会話を中心とするならば、それはcommunicationを意識したもので無ければならない。

根本的な質問だがcommunicationとは何か?動詞のcommunicateは1384年に英語に入った古フランス語のimpartを意味するcommunicareに起源を持つ言葉である。この語はto share in, divide with anotherを意味する。つまり共有、分かち合うということを意味する。すなわち、それぞれの文化や意識を共有、理解できるようになることがコミュニケーションなのである。

異文化コミュニケーション研究者のAdrian HallidayはIntercultural Communication の本の中でessentialist view とnon-essential viewという二つの見方について述べていた。Essentialist(本質論者)は文化とは物質的な形があり、場所があり、同質であると言う見方をする。また彼らは世界はそれぞれ異なる国の文化に別れ、それぞれの国民は異なるという見方をする。これに対して、Non-essentialist(非本質論者)は文化は社会が作るものであり、社会は複雑なためそれぞれの文化の特徴を特定することは難しいと考える。彼らは文化は国境、社会の壁を超え、交じり合い、交差するため常に変容すると考える。この対極的な二つの文化に対する見方をmonolingual とbilingualに重ねてみるとどうだろう。もちろん、そのような行為自体本質論者的な感じもする。monolingualな人の中にもnon-essentialistはいるだろうし、bilingualな人たちの中にもessentialistはいるかもしれない。

多様な見方をすることが危険と思う人がいるかもしれないが、多様な見方をshareすることがcommunicationの本来の目的であれば我々の外国語教育こそがそのための社会学習手段だと思う。

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2008年4月18日金曜日

Lexical nightmare is the boon for brain?

英語の世界に入った人は語彙の迷宮とも思える英語の語彙の豊富さに圧倒される。もちろん、会話レベルではPaul Nation氏などが述べるように使用頻度の高い2,000語レベルで十分駆使していけるはずだ。この語数は確かに中学で学ぶ語彙数に近く、「中学レベルの英語でも英語は話せる」という本などを書かれる方の話もうなずける。このレベルであれば他の言語なら中級レベルまでにいけるだろう。

しかし、実は英語はここからが容易ではない。4,000~5,000でも中級レベルである。このあたりがGermanic English(ゲルマン系英語)の境界線である。ここからはAnglo FrenchやLatin, Greek系英語の語彙の世界が始まる。英語に同義語が多いのはこの英語と言う一つの言語の中に3~4種類の異なる言語が歴史的に入り込んでいるのである。そのためcow - beef -bovine のように最低でも3つ以上同じ意味を表す言葉が存在するのである。ちなみに、私はたまたま大学でスペイン語を学んだためかLatin系の英単語にはなじみやすかった。

英語はまたブラックホールのようにcoined wordと呼ばれる造語表現を生み出し、またloaned word(借用語)を世界中から取り入れていく。このため常に語彙が膨れる。その数は把握できないぐらいだ。おそらく1,000,000語近くあると言われている。それは人間には記憶できる数ではない。

世界には語彙を増やさずにシステムとして自分なりの表現を語彙の活用により作り出せる言語もある。そのような言語では語彙はそれほど必要としない。では何故英語は語彙がそんなに多いのか?。

言語を変えて、日本語を見た場合、日本語はなぜ漢字もひらがなもカタカナも必要なのか?なぜ読めない漢字などがあり、一生をかけて多くの漢字を読めるようにしたり漢字を忘れないように努めるのだろうか?この議論に似ているようにも感じる。

語彙を増やす、多くの複雑な語彙のシステムを持つことは人間が記憶という人間の証明を維持することと戦うために考えた知恵なのではないかとも思うことがある。話が変わるが、重力がない宇宙では人間の脳は重力の刺激がないために痴呆症になりやすいという科学的な記事を呼んだことがある。人間は脳を刺激し、人間であることを維持するために複雑な言語のシステムや語彙を増やしたりするのでないかと思ってしまう。

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