2008年4月26日土曜日

Can bilingual education foster real communication?

外国語教育の究極のゴールはどこにあるのだろう?そう思うことはないでしょうか?bilingual になることとmonolingualであることの社会性における利点、不利益は何だろうか?外国語教育が会話を中心とするならば、それはcommunicationを意識したもので無ければならない。

根本的な質問だがcommunicationとは何か?動詞のcommunicateは1384年に英語に入った古フランス語のimpartを意味するcommunicareに起源を持つ言葉である。この語はto share in, divide with anotherを意味する。つまり共有、分かち合うということを意味する。すなわち、それぞれの文化や意識を共有、理解できるようになることがコミュニケーションなのである。

異文化コミュニケーション研究者のAdrian HallidayはIntercultural Communication の本の中でessentialist view とnon-essential viewという二つの見方について述べていた。Essentialist(本質論者)は文化とは物質的な形があり、場所があり、同質であると言う見方をする。また彼らは世界はそれぞれ異なる国の文化に別れ、それぞれの国民は異なるという見方をする。これに対して、Non-essentialist(非本質論者)は文化は社会が作るものであり、社会は複雑なためそれぞれの文化の特徴を特定することは難しいと考える。彼らは文化は国境、社会の壁を超え、交じり合い、交差するため常に変容すると考える。この対極的な二つの文化に対する見方をmonolingual とbilingualに重ねてみるとどうだろう。もちろん、そのような行為自体本質論者的な感じもする。monolingualな人の中にもnon-essentialistはいるだろうし、bilingualな人たちの中にもessentialistはいるかもしれない。

多様な見方をすることが危険と思う人がいるかもしれないが、多様な見方をshareすることがcommunicationの本来の目的であれば我々の外国語教育こそがそのための社会学習手段だと思う。

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2008年4月18日金曜日

Lexical nightmare is the boon for brain?

英語の世界に入った人は語彙の迷宮とも思える英語の語彙の豊富さに圧倒される。もちろん、会話レベルではPaul Nation氏などが述べるように使用頻度の高い2,000語レベルで十分駆使していけるはずだ。この語数は確かに中学で学ぶ語彙数に近く、「中学レベルの英語でも英語は話せる」という本などを書かれる方の話もうなずける。このレベルであれば他の言語なら中級レベルまでにいけるだろう。

しかし、実は英語はここからが容易ではない。4,000~5,000でも中級レベルである。このあたりがGermanic English(ゲルマン系英語)の境界線である。ここからはAnglo FrenchやLatin, Greek系英語の語彙の世界が始まる。英語に同義語が多いのはこの英語と言う一つの言語の中に3~4種類の異なる言語が歴史的に入り込んでいるのである。そのためcow - beef -bovine のように最低でも3つ以上同じ意味を表す言葉が存在するのである。ちなみに、私はたまたま大学でスペイン語を学んだためかLatin系の英単語にはなじみやすかった。

英語はまたブラックホールのようにcoined wordと呼ばれる造語表現を生み出し、またloaned word(借用語)を世界中から取り入れていく。このため常に語彙が膨れる。その数は把握できないぐらいだ。おそらく1,000,000語近くあると言われている。それは人間には記憶できる数ではない。

世界には語彙を増やさずにシステムとして自分なりの表現を語彙の活用により作り出せる言語もある。そのような言語では語彙はそれほど必要としない。では何故英語は語彙がそんなに多いのか?。

言語を変えて、日本語を見た場合、日本語はなぜ漢字もひらがなもカタカナも必要なのか?なぜ読めない漢字などがあり、一生をかけて多くの漢字を読めるようにしたり漢字を忘れないように努めるのだろうか?この議論に似ているようにも感じる。

語彙を増やす、多くの複雑な語彙のシステムを持つことは人間が記憶という人間の証明を維持することと戦うために考えた知恵なのではないかとも思うことがある。話が変わるが、重力がない宇宙では人間の脳は重力の刺激がないために痴呆症になりやすいという科学的な記事を呼んだことがある。人間は脳を刺激し、人間であることを維持するために複雑な言語のシステムや語彙を増やしたりするのでないかと思ってしまう。

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2008年4月15日火曜日

Do not demotivate students before motivating them.

生徒にモチベーションがあってこそ授業は成功すると信じられています。講師は「生徒がモチベーションがある、ない」などと言いますがモチベーションとは何でしょうか?英語ではmotivationは名詞で日本語の意味の「やる気」などの意味も含みます。しかし、この単語は動詞motivate「動機付ける、刺激する」から派生しているはずです。他の感情動詞と同じように、英語ではこれらの動詞を人を主語として使う場合、He was motivated to go abroad by the book. のように受動態で使ったり、The book motivated him to go abroad. のように無生物主語の構文で使います。つまり、何か外在するものがやる気を与えるのです。日本語のように感情動詞が自動詞のような場合、やる気は内在する感情のように知覚されます。しかし、やる気は英語のように何かがやる気を起こさせるのではないでしょうか?

さて、我々講師・教師は生徒への動機付けへの責任は無いのでしょうか?生徒からすれば我々講師は英語を話すrole modelです。我々の姿が彼らに英語への興味付けをおこなうことは多々あります。講師がモチベーションを高めないにしても、モチベーションを下げるdemotivationを行うことは決してやってはいけないことです。

demotivation の研究は最近少しずつ行われています。最近よく聞く「引く」「引かせる」(英語ではturn offが一番近い表現だと思います)はdemotivateと関係があるのでしょうか?講師と生徒の間のchemistry (相性)やgeneration gap, gender gap, extremicism (行きすぎ)などもあると思います。しかし、教授法が問題の場合もあるでしょう。講師中心の授業では講師の価値観や講師のやり方を生徒が受け入れるか拒否するかと関わってきます。これが生徒中心の授業だったらどうでしょう。我々講師はもっと中立的でdemotivateする可能性は少なくなるのではないでしょうか?

もちろん、素晴らしい経験や英語の楽しい世界を身体から感じれる先生方もいらっしゃいます。そんな先生は多くの生徒をmotivateするでしょう。しかし、先生も人間。motivateして次の瞬間にdemotivateすることだってあります。どんなに素晴らしい先生でも全ての生徒をmotivateできないでしょう。生徒は先生だけでなく、色々なことにmotivateされます。講師はもっとneutral なスタンスを取り、demotivateしない方法を考えてみるのも大切なのではないでしょうか?

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2008年4月12日土曜日

Food for Body and Language for Soul

今日埼玉の教室のある入間市のFMチャッピーでゲストに呼ばれて、15分程度の短い放送だったが初めて公共の電波で自分の声が流れた。マイクとヘッドフォンをして話すのは緊張すると思ったが、意外に大丈夫でそれどころか楽しい気分になれた。

第二言語を教えながら、「話す」ということを時々考える。人間は何故話すのか?この疑問に正確に答えれる人はいないだろう。それは人間が考える動物だからなのだろうか?パスカルは「人間は考える葦」だと言ったが、考える動物や生き物は他にもいる思う。確かに、高度な動物は脳が発達し高度な言語を持つと思う。しかし、人間のように気持ちを伝えるために言語を使う生き物はいないと思う。

言葉を話して楽しくなれるのは人間だけではないだろうか?そうだとすると言葉は「心」の食事のように思える。食事は身体が求めるが、言葉は心のつながりを求めるのではないだろうか?しかもこの二つの関係はさらに相乗効果ももたらす。つまり、おいしい食事を楽しい会話をしながらとれば、身体も心も普通以上に満たされる。そして、身体も心も健康になれる。

逆に、マイナスに働く場合もある。十分な食事がなければ栄養失調になるし、十分なコミュニケーションがなければ孤独になり精神的な病気になる。バランスの取れない食事を家族の会話も無くとれば、だれもが身体だけでなく心も病んでしまう。

言葉が心への栄養だとしたら、どのような会話が人をより健全にするか研究すべきだと思う。アメリカには幸福を研究する人がいるが、心の健康のための会話学も研究されるべきだろう。

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2008年4月10日木曜日

Useful Expressions Part 6

  • muscular build 筋肉質の体格
  • homer ホームラン
  • thrift shop リサイクル店、中古屋
  • bargain shopper 安く物を買う人
  • impulsive shopper 衝動買いをする人
  • frigid temperature 凍るような寒さ
  • eject 投げ出す
  • roll over 一回転する
  • flip over ひっくり返る
  • dicey 危険な

2008年4月9日水曜日

Confidence

日本人は英語に自信を持つべきだと思う。日本人の自信を失わせているのは、マスコミや世の中の定説が自信を失わせ、日本人は英語が出来ない、話せないと思わせているだけでないだろうか?近年心理学の観点から英語教育が研究され始めているが、「できると思うこと」や、「気にしない気持ち」、「不安にならない気持ち」がなど感情変数が言語の、特に発話と関係しているのだ。だから、我々のように洗脳されやすい国民は自分たちが出来ないものだと思い込み、そしてaffective filterが高くなるのではないだろうか?

例えば、TOEICに関しても日本人は世界的に低いと言われるが果たして事実だろうか?TOEICはもともと日本で始まった試験であり、海外でのマーケティングはまだ始まったばかり。近年ヨーロッパのEFL学習者も受験しているが、7割近くが日本の受験者だ。おそらく海外でTOEICという認知度の少ない英語試験をうける人はよっぽど英語に自信がある人ではないのだろうか。しかし、日本の場合、会社で強制的にに受験をする人なども含まれる。これらの受験者のやる気やモチベーションの差がありながら、統計の結果を出すこと自体が問題があるのではないだろうか。

日本語は他の言語に比べてあまりにも特殊であることが不利であるように思われるが、ここまで複雑でなおかつシステマティックな言語を作った我々は言語の能力は非常に高いと思われる。しかし、歴史的に、文化的にコミュニケーションの歴史が少なかったのではないだろうか。封建的な社会で我々は発言を統制され、言葉使いを複雑化することにより、本音よりも発言の仕方(form)が進化したために自分の意見を自分の言葉で表現する歴史が他の民族に比べ少なくかっただけだからでないだろうか?

英語力に関しては、文法、読解力、作文力、単語力では世界のどの英語学習者よりも高いレベルにいると思う。唯一低いのはリスニングと発話である。しかし、これは先ほどの歴史的、民族的、社会的な要因が関係しており、それを回復するにはリスニングの練習を増やすことと、会話自体を日本語も含めて積極的に行うべきである。親との会話、先生との会話、近所の人との会話、会話の少ない社会の人が英語だけ会話力が高まるとは思わない。英語をきっかけにもっと人と自信をもって会話をすべきだ思う。

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2008年4月3日木曜日

A good teacher teaches students to teach themselves.

先日ある学校の先生の自宅を伺った際にアメリカの刺繍にされたある引用文が私の目を引きました。それにはA good teacher teaches students to teach themselves.と刺繍されたいたのです。私はこの言葉が言語教育のみならず全ての教育の原点であり教育の究極の方法と思いました。

我々教育者は時にinputをする機械のようになっていることに気づいていません。しかし、inputは自分でもできるのです。素晴らしい本や素晴らしい体験をすれば人は自然に学習していきます。教育とは子孫の生存の仕方を教えることです。親も先生も一生その子を見守り手を貸すことは出来ません。いつか自立をするのです。その自立の仕方を教えるのが教育と思います。

日本ではどうしてもwhatになりますが、本当はhowではないのでしょうか?何を学ぶかではなくて、どのようにして学ぶかをもっと教えるべきだと思います。

英語についてもこのことが言えると思います。週に数回のレッスンだけで英語が身に着くことは残念ながら非常に少ないケースです。私も含めて英語を日本で身につけた人は恐ろしいほどの時間とその独自の学習方法をそれぞれ開発した人たちです。幸運にも学習方法が的を得た人は身に付けている場合がありますが、不幸にもその方法が間違っていたり、自分にあっていなかったりした場合は同じ大量の時間を掛けても大きな成果を得ていない人も私は見ています。

もし、講師や教師が何を教えるかでなくどのようにして生徒が自分で効果的に勉強したらよいかを考えてあげたらもっとよい結果を得れるとおもうのです。たとえ結果がよいものでないにしても、一つの学習方法を身につけた人は、その後の学習や仕事にも応用していくと思うのです。

学び方を教えることは生き方を教えることにもなるのかもしれません。

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