2008年3月28日金曜日

Individual Difference

学習の仕方は個人によって異なります。語学についてもこのことは言えるでしょう。同じように学習してもある学習者は短期間で習得し、ある学習者は非常に苦労する場合があります。逆にその苦労した学習者が他の方法で学習した場合、短期間で習得した前述の学習者には受け入れられない場合もあります。

さて、言語の習得という場合、我々は4技能と言いますが本当に言語技能は4技能 - 読む、書く、聞く、話す - しかないのでしょうか?対話であれば、相手の言葉を理解する技能も必要です。そして自分で話すためには思考も必要です。私が思うには言語は6技能 - reading, writing, listening, speaking, understanding, thinking - が必要だと思います。しかし、疑問に思うのは、これらの技能を人間は全員本当にすべて平均的に高いレベルにすることができるのでしょうか?

私は言語の技能は人によって得意分野があると思うのです。それはなぜでしょうか?少しスピリチュアルな話になりますが、人間は何かしらのcalling(天職)があると思うのです。科学的にはgenetic aptitude(遺伝的才能)がある思うのです。人間は平等に作られています。しかし生まれてくる役割はそれぞれ異なります。俳優に生まれた人は話すことを得意とするでしょう。哲学者や思想家、宗教家として生まれた人は考えることが得意かもしれません。科学者に生まれた人は理解をすることが得意かもしれません。作家として生まれた人は書くことが得意かもしれません。もし自分の適した職業が言語とも関係しているならば自分の得意な部分もあるように不得意な部分もあるはずです。

もしこれが正しければ、外国語の習得でも自分の得意な学習方法で学習されるのが効果的でないでしょうか?遺伝子と言いましたが、民族によってはその民族自身が適した能力を持っている場合もあります。たとえば、農耕民族である日本人は狩猟民族のように様々な音を聞き、狩猟や場所の情報交換は必要ありません。情報の交換のための会話よりも集団での秩序と生産性を保つための会話が必要になります。そのためにはマニュアル的な文書も必要になるでしょう。このため我々は読み書きの技能が発展したのではないでしょうか?今でも「読み書き」と言い、これらの技能が最高の技能と日本では考えられていると思います。

日本人が全員読み書きにしか向いていない意味ではありません。そのような特徴があるので、その部分を伸ばすのか、それともそれはむしろ得意だから短時間でも習得できるから他の技能に力を入れるかが問題なのです。

また男女の学習方法の差も考慮に入れることも大切かもしれません。日本の英語教育は読み書きや文法を中心としていましたが、これはもしかすると男性に向いていたからかもしれません。日本では女性が教育を受けれるようになったのはここ3~40年です。女性と男性とでは言語の習得の速度や学習方法が異なるはずです。

自然に習得できる状況にいる場合を除けば、効率の良い学習にはその学習者の得意な学習方法で習得していくことが望ましいでしょう。

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2008年3月21日金曜日

Inductive Teaching VS Deductive Teaching for EFL

inductive teaching(帰納的指導) とは生徒が体験を通して自分が聞く例文などのサンプルからそこに潜むルールなどを見出させる指導方法であり、法則について後で議論したり、講師があとで説明する方法です。以前述べたTask Based Language Teachingがこのコンセプトに基づき考えられていると思います。これに対してdeductive teaching(演繹的指導)は講師がはじめから法則や概念を教えてから使用例などを見せどのように応用されているかを知らせる指導方法である。日本の文法中心の学習方法がこれに近いと思います。

学習には時に効率性を考えることがあります。deductive teachingの方が試験などの結果を出さなければならない場合、より効果的かもしれません。日本のように受験国家では試験という結果を出さなければなりません。そのためには、inductive teachingは非効率的な指導方法に感じられるのかもしれません。またinductive teachingの効果は学習者の洞察力などにより左右されます。意識や観察力の低い学習者は間違ったルールを法則化するかもしれません。その意味では大量に、平等に知的レベルが平均的に高い国民を作るためにはdeductive teachingが効率も効果も高かいのかもしれません。

語学ではどうでしょうか?deductive teachingは決して悪いわけではありません。先にも言ったようにより効率的で目的によっては効果的な指導法です。問題は何を目標にするかです。ペーパーテストでなくてオーラルテストが国の入学試験になれば、話し方のルールをインプットさせ、練習すればそれなりの効果が出るのではないでしょうか?deductive teachingの後のフォローアップが少ないのが問題なのではないでしょうか?

もちろんinductive teaching の良さも見逃せません。知識優先の授業には向かなくても、「考える」または体験して「身体から覚える」必要のある内容にはinductive teaching も積極的に使用すべきだと思います。語学でも基礎が終わればinductive teachingでよいのではないでしょうか?

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2008年3月18日火曜日

Useful Expressions Part 5

  • moist skin しっとり肌
  • one of a kind ユニークな人(物)
  • recluse 引きこもり
  • sideburns もみあげ
  • give headsup 予告をする
  • in a nutshell 一言で言うと
  • go too far やりすぎる
  • close battle 接戦
  • do justice to ~を公平に評価する
  • cross my mind 心をよぎる

2008年3月17日月曜日

Hand down Japanese things in English

一昔前まで、英語=外国語文化でした。つまり、英語を習得し同時に外国の発達した技術・文化を取り入れることが目的とされていました。しかし、今この目的で英語を習得する人はほとんどいないでしょう。
なぜならば、海外の技術文化はすでに日本語として翻訳され日本で独自に発達し、むしろ日本が途上国だった技術でも今日本は先進国にあるからです。

一方逆の文化の流出は進んでないようです。つまり日本文化・技術の継承が英語で行われていない。もちろん、日本の文化は日本語で伝えるべきだと言われる方もいるでしょう。では、私たちは海外の文化や技術を英語で学んだのでしょうか?残念ながら海外には日本で英語を学ぶ人よりもはるかに少ない人しか日本語を話せません。その一部の人が正確に日本の文化や心を伝えているとは限りません。

日本の文化は日本人が守るという時代は終わりました。世界のみんなが日本の良さを知るべきです。そのためには、日本人の普通の人たちが英語で日本の良さを発信していかなければなりません。その目的ができれば、もっと英語への興味を出来てくるのではないでしょうか?

たとえば、社会の先生が外国人に日本の三人の武将について説明する英語を考えてきなさいという宿題を与えても良いのではないでしょうか?書道の先生が英語で外国人に習字をする方法を生徒たちに教えても良いのではないでしょうか?英語の先生は文法を教えなければならないという義務があってこのようなタスク系の授業ができないなら、他の科目の先生にやってみたらどうでしょうか?

日本人という遺伝子を残すことは限度があります。現に少子化で、日本人が少なくなるかもしれません。でも文化は他の文化に継承され生き残り、更には進化をする場合もあります。

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2008年3月15日土曜日

Task-Based Language Teaching

今日テンプル大学のdistinguished lecture でRod Ellis氏のTask-Based Language Teaching(TBLT)の講義を聴いてきた。TBLTは簡単に言えば、英語を使って何か課題(写真を描写する、伝言に対して返事を書くなど)を与えて、学習者がそれを行い自然に英語を身につける方法である。文法・語彙・発音などはその課題の中で最後に指導者がはっきりと、またはそれとなく教える方法である。

TBLTは話すことに主眼が置かれている。つまり英会話学校などでは効果的なアプローチである。Ellis氏も言われていたが、文法中心の精度に重点を置く英語教育には向かない。これを混在させながら使用することは不可能だと言う。その意味では学校英語はこのTBLTを事実上使用できないと言ってもよい。なぜならば、学校英語は文部科学省のガイドライン(文法が学習のターゲット)に沿っており、また受験でも文法を中心とする問題がまだ多いからだ。

言葉には、「話す」という精度よりも即興性を必要とする技術と正確に使用するという二つの部分があるが、それらを一つの学習方法で達成できないのだ。我々も日本語を話すが、「国語」の授業が必要だった。英語も同じだ。話すための効果的な学習方法と精度を極める学習方法は同一のものではない。

TBLTはEFL(外国語としての英語教育)の学習アプローチである。コンテキストリッチな海外では必要がない。つまり外の英語社会がすでにTBLTだからだ、Ellisさんが英語を水泳のように比喩していたが、海外では日常が英語の海だからどんなフォームであれ泳がなければならない。日本には英語という海はない。英語の海で泳がないといけない状況はない(インターナショナルスクールやイマージョンスクールは別だが)。だから教室をプールにしなければならないのだ。でも日本の教室はプールを作らず泳ぎ方やきれいなフォームを研究したり上手な人のフォームを見ているだけ。教室にニセモノでもいいから海を作って生徒に英語の海の泳ぎ方を身体をもって覚えさせなければならない。

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2008年3月11日火曜日

Interest is the driving force behind motivation.

週末、自分の趣味のブログを立ち上げました。もちろん英語と関連しています。英語を学ぶ際に誰もが一度は、興味をなくす場合があります。何故英語を勉強しているのか?たとえ英語を話せることが自分の将来を明るくしてくれるとしても、それだけのモチベーションだけでは英語が続かない場合もあります。

最近特に言われているのは英語で好きなことをすること、これが外国語を長続きさせてくれるということです。「英語は道具であり、目的ではない。」と言う方がいます。私もこの考え方に同意します。何のために英語を学ぶのか。英語で伝えられる音楽の意味が分かるようになりたい。英語を話していろんな国を旅したい。アメリカのメジャーリーグの野球の中継を理解したい。サッカー留学をしたい。海外で釣りをしたい。世界的な科学者になりたい。

つまり、want to do「やってみたい」がないといけないのです。日本人にはcan do「できる」の気持ち、つまり自信が少ないですが、このwant to doが少ないからなのではないのでしょうか?したいことが見つかれば、そのために必要な英語も見えてくるし、英語へのやる気が高まるはずです。英語を上達することを目標とする前に英語で何をしたいかを自分にたずねてみるべきでないでしょうか?

やってみたいことが上級の英語まで必要せずむしろ簡単な表現で沢山、早く話すことを必要とするのであれば、とにかく話すことを強化した方がよいでしょう。自分のしたいことが沢山の本を読むことなら読む力をつけましょう。

興味が目標を具体化させ、そのための学習内容や学習方法まで具体的にしてくれると私は思います。

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2008年3月9日日曜日

KY

昨年KYという言葉が若い人によって使われるようになりました。KYとはKuki Yomenaiの頭文字をとったものだ。当初はKY=Kuki YomeruでNKY=Not Kuki YomeruでNKYがKYの否定形として使われていました。ところが、高校生の間で使われていたこの略語が小・中学生にも使われるようになり、否定形がなくなりYKを否定語句にしてしまいました。

「空気を読む」とは日本などのhigh-contextual(文脈が高い、つまり前後関係を意識してコミュニケーションを行う率が高い)な社会特有の非言語コミュニケーションスキルである。日本以外にもパプアニューギニアやアメリカインディアンなどの社会にも同様の以心伝心的なtelephathetic communicationを使う社会がある。しかし、先進国ではおそらく日本だけである。この技術の必要性は確かにあると思う。しかし、日本社会も二極化、多様化していくと、同じ民族の中でも価値観が多様化し共感できる部分がすくなくなる。このような社会では以心伝心というこれまでのnon-verbal communication skillは使えなくなるのです。おそらく今日本社会は二極化、多様化に向かう中で、子どもたちがすでにその現象に気づき葛藤しているのではないでしょうか?

日本語は確かにhigh-contextualな言語です。敬語、謙譲語など立場や状況に応じて言葉を選び、思いやりという価値感が不快な言葉を避け、状況によっては無言でいることさえ美とされてきました。

しかし、時代の流れ、世界の流れを考えれば、high-contextual社会からlow-contextual社会に入っています。ヨーロッパ社会に代表されるlow-contextual社会では、以心伝心などのコミュニケーションがないため言葉にたよります。その結果、常に話すことが問題の解決、社会の円滑化をもたらすと考えられています。

会話の少ない、ディベートが弱い日本人が今身につけなければならないのは、感情的にならず様々なことを多面的に考え、話し合える力が必要なのではないでしょうか?英語を教える立場として、英語はこの部分で日本語を超えたverbal communication skillを必要とします。英語教育において得られるもう一つの恩恵は言葉で人を理解する力を養うことだと思います。

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Useful Expressions Part 4


  • blackout 停電
  • whiteout ホワイト、修正液
  • loonie カナダドル
  • green buck アメリカドル
  • seasoned 熟練の
  • tech savvy ハイテクに詳しい人
  • geek オタク
  • wannabe ~にあこがれる人
  • come in handy 役に立つ
  • go broke 金欠になる

2008年3月7日金曜日

Bilinguals

英語を学習するなら、だれもがバイリンガルと言う言葉にあこがれるだろう。しかし、バイリンガルといっても定義が難しい。ほとんどの人はバイリンガルと呼ばれるには、両方の言語をマスターした人を想像するかもしれない。実際には、広義の意味では他の言葉で一通りの生活がで出来ればバイリンガルとみなされる。ビジネスや学術的な用語を知っていたり、政治や宗教などの話ができなくてもよいのである。

バイリンガルも第二言語を学習した時期により二種類に分けられる。一つはsimultaneous bilingualsと呼ばれる第一言語の習得と同時に第二言語も習得したバイリンガルである。両親が異なる言語話者、海外で居住し、家庭では第一言語、外では第二言語という場合である。もう一つはsequential bilinguals、これは第一言語をある程度習得した後に他の言語を習得するタイプ。親の海外転勤や移住で母語を話せるようになった後海外で生活をするようになったり、または国内の学校での一貫した外国語教育、留学などを通して2ヶ国語が話せるようになるタイプだ。

またバイリンガルは第二言語を習得したことにより第一言語である母語にどのように影響を与えるかによっても分類される。一つは第二言語を習得したために、母語の能力が低下するsubtractive bilingualsである。このケースは海外に早い時期に移住し、家庭内で母語が話されなくなる場合に多く生じる。これとは反対に、第二言語の習得が第一言語にマイナスの影響を与えないバイリンガルはadditive bilingualsと呼ばれる。このケースは家庭と社会での言語を両立しているバイリンガル家庭やsequential bilingualsで青年期以降に第二言語をマスターし、その後も第一言語と第二言語を学校や社会で常に使う必要性のあるバイリンガルがこのケースに相当する。

日本人全体がおそらく将来バイリンガルになる必要性が生じるかもしれない。その場合、simultaneous bilingualとして幼児期からバイリンガルにするのか、それともsequential bilingualsとして第一言語をちゃんと習得してからバイリンガルにさせるのか、外国語教育は最終的にadditive(+)かsubtractive(-)かという重大な結果を残すだけに慎重に計画的に行わなければならない。

2008年3月5日水曜日

hit the plateau

hit the plateau とは「伸び悩む」と言う意味だ。plateauとは台地を意味するから、つまり坂を上りあがったもののしばらく台地の部分を歩くことになることだ。学習は完全な坂道ではない。歩き続ければ上り続けるものでもない。ある期間、一種の消化期間、あるいは次の上昇のための準備期間になる。

学習者の多くはこの台地部分でスランプを感じたりするものだ。継続は力と言うことわざはこの台地期間を抜け出すための言葉かもしれない。台地期間が永遠に続くわけではない。しかし、台地期間に何か工夫をするとか学習の方法を変えたりすることは大切だ。インプット中心だった人はアウトプットの学習(会話、作文)を多くしたり、アウトプット中心の学習者はインプットの学習(語彙を増やす、本を読む、リスニング練習を増やす)を行ってみる。また学習のタイプではなくて、方向性を変えてみることも一つの方法だ。文法などaccuracyにこだわってきた人は、fluencyを重視し、あまり文法にこだわらなくしてみるとか。またその逆もありえるだろう。

学習も人生と同じでups and downsは必ずある。少し見方や考え方を変えるだけでスランプから脱出できることも多くある。筆者もその様な経験者だ。また自分だけで考えていても見つからない場合があるから、人に聞いたり英語が上手になった人の経験話を読んだりするのもプラスになるだろう。

2008年3月4日火曜日

大人の英会話

大人の英語はどのように学ぶべきか。大人は言語の学習で不利と思われている。それは言語能力が低下するからではない。むしろ言語的な能力(特に知識)は増える時期に入るはずだ。しかし、この知識の構築が時として思わぬ面倒を招く場合がある。つまり知識先行になるため、完璧に話そうとしたり、フレーズなど覚えることが中心となったり、さらに自分の学習方法に執着する。

更に学歴・仕事がプライドを生み出し、会話ができなくなる。つまり、知識が精神的な壁(言語学的にはaffective filterと呼ばれる)を作り出すのだ。その証拠として、プライドがなくなり自分の立場をあまり考えないお酒の場では英語がスムーズに出てくる人も多いはず。このプライドというものを無くすことが大切だと思う。

英会話は英語力の見せ場ではない。英語力はテストや資格で証明できるが、英会話力は人としてのソフトさやコミュニケーション力も関係してくる。このコミュニケーション力を伸ばすことが英会話力を伸ばす鍵になるのではないだろうか。最近の日本では、人が人に声をかけづらくなってきているけど、人に話しかけたりすることが少なくなっているのはプライドが原因になっていたりするのではないだろうか。

高いモチベーションと継続という学習の鉄則は英会話でも大事である。この点は大人の学習者は子どもよりも勝るはずだ。あとは、もっとリラックスして肩の力を抜いて、型にこだわらず話すいい加減さが必要だと思う。accuracy (正確度)がプライドを生み出すのなら、fluency(流暢さ)はその対極にある適当さによってもたらされるでは。

2008年3月2日日曜日

沈黙期(Silent Period)

言語学者や第二言語指導者の間で認められている一つの仮説に沈黙期がある。これは、言語の習得の初期段階における現象で、第一言語でも多く見られる。特に学習者が児童の場合、一定の期間学習者は質問や会話の理解に集中し、応答などをしない現象がる。この期間が沈黙期間silent periodと呼ばれている。

この期間は、子どもはほとんど自発的に会話や応答をせず、強制される場合でも非言語的な方法(ジェスチャーや表情)で答えるぐらいだ。言語は理解から発話になることを裏付ける現象でもある。またこの期間は個人差があり、長い場合は通常の学習者の2倍必要の場合もある。しかし、その後の発話が質の高い場合もあり、沈黙期間が長いことが一概に言語能力が後れていることを示すわけでもない。

外国語学習は将来の経済的な大きな投資でもある。しかしこのような現象も認識し、長い目で余裕を持って、学習すべきである。インプットしたものがすぐにアウトプットするとは限らない。言葉は頭の食事である。栄養がすぐに身体に出る人もいれば、休憩や準備運動をしないとその栄養の効果が出ない人もいる。食事の仕方と同じで、言葉の吸収も人によりペースやスピードが変わる。問題はあせらせて、消化不良を起こさせないことである。